出生時
元気にオギャーというより、初乳も飲めないくらいグッタリとした様子で出生。
1981年9月12日(土) 午後7時40分 晴れのち夕方から小雨
身長 51.4cm 体重 3435g 胸囲 33cm 頭囲 33.5cm
父:利根敬通 30才 母:利根洋子28才
名前の由来
英法の出生の日に、ノーベル賞受賞者湯川秀樹氏がなくなりました。湯川氏に因みそして法律家になってほしいと思い「英法」と命名しました。それでは、「秀法」ではとの疑問がありますが、縦書きにするとおさまりが悪く「秀」→「英」にしました。
日本海竹の浜にて
友達のような親子関係:
1歳の誕生日前の夏から中学に入学までの夏は、日本海で私の職場の同僚と1週間ほどテントで暮らすキャンプ生活。時には台風に遭遇してテントが飛ばないよう必死にしがみ付いたり、波にのまれ目の前で溺死体を引き揚げているときに「自然を馬鹿にしたらあかん」と話しあったりしました。
箏習いはじめ
3歳春に尺八をしていた祖父の勧めで箏を習い始めます。
近所の植木先生への送り迎えは祖父、祖母の仕事。祖父は、将来孫と共演を望んでのことでしたが、共演は実現しませんでした。昨年、尺八の田辺先生が自分も協力するからと祖父に共演を迫りましたが、頑固者の祖父はプロを傷つけると拒否。
師匠の植木先生:「チョコレートとあめ貰うのを楽しみに来ていたようですよ。」 幼稚園の先生には、お稽古が楽しかったのか「今日お箏のお稽古に行きます」といつも言っていたようです。
相生の秋祭り(5歳)
祭り好きの原点:
曽祖父は漁師でした。相生市相生(通称おう)は漁師まちで、祭りが盛んな地です。新興住宅地で生まれた英法は、漁師の血がさわぐのかめっぽう祭り好きです。越境して相生(おう)の祭りに綾子(「稚児」のこと)として出ました。
母病床時の手紙 だいすきなおかあさん
潰瘍性大腸炎で激痛を訴える母に毎日励ましの手紙を書いた心優しい英法でした。小学一年の冬休み、家族三人で越年スキーを楽しみました。その時から母洋子は下痢に悩まされ一月十日に母が勤務する姫路共立病院に入院します。潰瘍性大腸炎は未だ治療が確立していない難病です。
母病床時の手紙 続き
・だいすきなおかあさん: 初めて見舞いの時に手渡した手紙。この時は、さみしくてペットに潜り込み添い寝をしてもらいました。
・がんばれおかあさん: 二回目に見舞いに行った後に書いた手紙。2回目の見舞いの時も激痛を訴える母に添い寝してもらった英法でした。
・ぼくのすきなおかあさんへ: 三回目の見舞い 母の様態が悪化し激痛で悲鳴をあげ顔も見られず、ベッドの柵から覗き込むようにして母の様子を窺っていたのを思い出します。帰り際、母に「毎日手紙を書くから頑張って」と言って帰りました。その時書いた手紙
・げんきになってね: 手術が出来る病院へ転院を考えていた時の手紙。この直後、治療と英法の激励が功を奏したのか急激に様態が回復します。
・般若心経: 英法が書いた般若心経の写経です。(一部省略)
・うれしいきもち げんきげんき: ヒヤシンスの芽が出てビックリ。母の「顔」(顔色)が良くなりビックリ
・母からのお礼の手紙:
・おかあさん おげんきですか: 一年半後、潰瘍性大腸炎を再発した時に書いた手紙
歌の片りん“ポタリ〜”
全国小・中学生筝曲コンクール(広島県福山市にて):
師匠の植木先生が、声変わりする前に歌でコンクールに出場させたいと、小学4年生の時に宮城道雄の“水滴”で挑戦しました。見事 小学生の部で優秀賞を受賞。この年の最優秀賞は同じ4年生で東京芸大2年先輩の橋本みぎわさんでした。審査員の宮城会大師範である砂崎知子先生から「美しい声ですね。水滴は、“ポタリ〜、ポタリ〜”でなく“ポ タ リ、ポ タ リ”ですよ。」と論評を頂きました。その後、福山で開催される全国小中学生コンクールで数々の賞を受賞、中学3年生の時にはコンクール最高位の牧本賞を受賞しました
信州越年スキー
友達のような親子関係:
冬は幼稚園から中学卒業まで、友人のスキークラブから信州へ越年スキーに行っていました。私は毎日遅く帰宅し会話のない親子でしたが、夏と冬は親子にとって濃い、濃い充実した時でした。こんな親子でしたからいつまでも友達感覚でした。
少年野球
兵庫相生大会(小学6年)
三振かフォアボール、ホームランが2塁打か3塁打:小学3年生になって、近所の山下のおっちゃんのすすめで、硬式野球「兵庫相生」に入団。6年生の新チームになった時、兵庫県下で強豪の阪神地域のチームとの練習試合で、1番から9番打者までバントの構え、最後までヒッティングをしませんでした。フォアボールとエラーのいつものパターンで敗戦。「新チームの選手では利根君の球はカスリもしませんからね。」と相手監督の弁。うれしいような、悲しいような。極めつけは、「兵庫相生」主催の大会の決勝戦です。3回までは5か6奪三振のパーフェクトピッチング。1点差で迎えた最終回2アウト、最後の打者にいつもの通りフォアボール。盗塁とワイルドピッチでランナー三塁、ランナーがふらふらと三本間に挟まれ悪返球で同点。ジャンケンで優勝を逃しました。これも、いつものチームの負けパターンでした。公式試合にホームランを打つとホームランボールを記念にいただけます。小学時3個と中学時1個ホームランボールをいただきました。普通の子であれば、10個以上もらってもいいはずが、父親譲りの鈍足も鈍足でしたので‥‥‥。
人を悪く言わない:この時から
野球の試合が終わって、親子で風呂に入り背中を流しがら、試合を振り返るのが日課でした。
中学3年まで続いたかな。負け試合の時には、指導者・選手や父兄はあの時のエラーがなかったら、三振しなったらと帰りの道中そんな話ばかりです。けれど我が家の風呂では、「タラは北海道」「責任を他人に転嫁するのは自分磨きにならないのでは・・・」こんな会話でした。こんな会話から、29年間人を悪く言わず自分磨きをしてきた英法が生まれました。そんな英法を私は尊敬しています
第1回「未来花コンサート」in北海道 高校1年生。この後、参加者が感動した「麗韻」を演奏
筝弾きになる思いを強めた未来花コンサート:
現代筝曲の作曲・演奏家の水野利彦先生に筝を弾くことの面白さと、いろいろな人との出会いをつくっていただきました。中学三年生の時、北海道の高野美和子先生の会に誘って頂き、リハにも参加せず高野先生の横で一七弦を本番で演奏させていただきました。その時、器の大きな高野先生に感心しました。その後、英法が亡くなる直前までお世話になりました。その演奏会直後の打ち上げの席上、10代、20代だけで演奏会を計画することが持ち上がり、高校1年生の夏「第一回未来花コンサート」開催されました。名プロデューサーの杉本果奈ちゃんと英法の「麗韻」は感動ものでした。未来花コンサートは、兵庫、奈良、関東で開催さました。英法は、未来花コンサートで人から脚光を浴びる喜びを覚え、筝弾きになる思いを強め、東京芸大に挑戦する決意を固めて、芦垣先生に初歩から古典を勉強し始めます。
入学記念写真 自宅にて
二浪して東京藝術大学音楽部邦楽科に入学:
入学した全員がそろって卒業するは至難の業だそうです。難関を突破して卒業と同時に「筝七星」を結成し兵庫県相生市を皮切りに岐阜・熊本・東京で公演を行い、それぞれ大成功をおさめました。
賢順賞受賞 神戸新聞 記事
どん底から賢順賞:
大学卒業の翌年、熊本で開催される長谷記念コンクールに“秋風の曲”で挑戦しますが、入賞すら出来ず強い衝撃を受けたようです。その衝撃をバネに、翌年の一穂会教師披露曲“秋風の曲”に取り組みます。こんな時「おやじ、古典は中々面白いわ。芦垣先生から目一杯古典を吸収するわ。」と明るい声で電話してきました。NHKの番組の中で「古典演奏家を目指します。」と言っていましたが、その思いを強く募らせたのはこの時からです。そして、賢順記念コンクール、長谷記念コンクールに挑戦し、賢順記念では最高位の賢順賞、長谷記念では2位の優秀賞を受賞しました。この受賞に最高に喜んで頂いたのは、師匠の芦垣先生でした。英法は芦垣先生にレッスン受けるまでは古典曲を演奏したことがなく、芦垣先生に一から古典の手ほどきを受けていたからです。 日本一の古典演奏家を目指し、伝統音楽を世界に広めるため、英法は友人の声楽家、作曲家の門を叩いて、発声や音楽理論の習得を始めた時の急死でした。英法が一番無念の念を抱いているのではないかと思います。今はただ冥福を祈るしかありません。
生前にお世話になった方々に感謝申し上げます。
合掌
プロとして一回り大きくなった「サロメ」の出演
2009年秋、俳優篠井英介さん企画・主演の劇「サロメ」に生演奏する機会に恵まれた。
「大きな舞台で一流の人たちから刺激を受け、演奏が上達した。サロメを経験したから賢順賞を取れた」と英法は話していました。
また、サロメの打ち上げを英法の自宅マンシヨンでおこなったとき、女優の江波杏子さんに「私の横にお座り、あなたの演奏には花があるよ。」と褒められたそうです。
皆様からの写真
長谷検校お祝いディナーと弟子入り
2011年5月、利根君が吼噦の三弦一人弾きで長谷検校コンクールの優秀賞を受賞しました。
今回は賢順賞の時と違って「精進します!」って、次への目標を見定めているぞというメールでした。
7月には謙一君も一緒に、横浜西口のT.G.I. FRIDAY'Sでお祝いディナー。みんなよく食べ、よく飲み、大いに盛り上がりました。そしてその日は
利根君への弟子入りが決まった記念日にもなりました。 真千姐